禅の無の境地は、気が必要か
禅や瞑想を続けても、無の境地に入れない
世の中には様々な行があります。
その中でも、禅や瞑想は、馴染みのあるものかと思います。
禅や瞑想の目的に一つとして、「無の境地」があるかと思います。
ただし、数年あるいは数十年続けても、なかなかこの境地を体験することができないのが現状かと思います・・・
目指す方向が分からないから、たどり着けない
禅や瞑想の難しいことの一つに、チェックの仕方や方向性が分かりにくいという点があります。
学校のテストは、丸付けにより、どこが理解できていて、どこが理解できていないかがわかりやすいです。
間違ったところを学習すると、点数があがります。
体を動かすことは、手の位置や角度、客観的にボールの速さなどで、チェックができます。
これが、外見的に動かない禅や瞑想となると、チェックの仕方がとたんに難しくなります。
これは気の感覚、操作能力もそうですが・・・
ここで、問題が発生してきます。
それは、チェック、正しい方向性、方法が分からないために、続けても上達しない。
人によっては、下手になっていってしまう
こういったことがでてきます。
生徒さんのレッスンをする中で、効率的に上達するには、やはり一人一人の細かいチェックが必要だと感じます。
また、こちらの気の操作で、ある程度達成した状態を、体験していただくことも可能です。
これは、とても重要なことです。
目指す方向がわかるということであり、到達した状態がわかるということであり、これにより、はじめてチェックが可能となります。
気の操作で無の境地
個人レッスンを続けていくと、だんだん経絡が開いてきます。
その中で、百会などが開くと、天の気・宇宙の気を吸収できます。
すると、禅で言われるような「無の境地」を体験できるようになってきます。
この状態は、体験しなければ分かりませんが
・エゴや自我が消える
・光が見える
・自分がなくなる
・意識が気持ちよく落ちる
・宇宙を感じる
といった状態です。
早ければ、レッスンを受講して数ヶ月もかからずに体験される方もいます。
これにより、言葉や文章でしか知らなかった状態が、実感として体験できます。
すると、一度体験して、またレッスンの中で、その条件も説明することにより、効率的にその境地に入ることが可能です。
無の境地に気は必要か?
無の境地、色々な呼び方があります、定、三昧、ゾーン、入静
※それぞれの言葉の定義が人により違いますが、似たような意味の言葉と扱っています
それには、氣は必要でしょうか?
私が色々な達成者の状態を分析すると、少なからず氣は使っていると言えます。
(これには、本人が意識して意図的に使っている場合もあれば、無意識で使っている場合もあります。
また、その方法や説明はバラバラです。)
無になることを目的にされていて、なかなか進まない場合、氣を使って目指してみてはいかがでしょうか?